”私の好きな女優さんについて”

以前、私は多部未華子試論なる記事を書いた事があります。私の好きな女優さんについて一般的な考察を加えるとともに、多部未華子さん、橋本愛さんのお二人に共通する魅力について考えてみたいと思います。

前にも書きましたが、男性諸兄が女性芸能人に惹かれるのって、大なり小なり自らのアニマをその女優さんに投影していると考えて良いでしょう。グラビアアイドルに惹かれる場合、第1段階のアニマを投影している場合もあるでしょう。

一般的には、女優さんの場合第2段階のロマンチックなアニマの投影である事が多いのではないでしょうか。あんな素敵な女優さんとのロマンスを夢見てファンになるという事は充分考えられます。しかし、多部ちゃんと橋本愛さんに限ってみれば、私の場合もっと高次のアニマの投影であるように思われます。

多部ちゃんの場合、その神の寵愛を得たとしか思えない資質より、単に女性の枠に収まらず弥勒菩薩のような存在として顕現しているように思います。『ピース オブ ケイク』のような人間臭い恋愛を演じている時にも、その表情からは叡智が感じられます。舞台の時は顕著です。舞台に立った多部ちゃんから叡智の光が差しています。第4段階のアニマの投影です。

橋本愛さんの場合、その無垢な美しさより、聖母マリアのような存在として私には感じられます。『バースデーカード』でのウエディングドレス姿は正にそうです。第3段階のアニマの投影です。あと一歩で多部ちゃんの場合のような女性の枠に収まらない存在になるでしょう。

私がこのブログを始めるにあたって、多部ちゃんには「聖性」があると書きました。言ってみれば第4段階のアニマです。橋本愛さんにもこれに迫るものを感じます。

やはり、真に優れた女優さんは、綺麗だとか、演技力があるとかとは次元の違う何か。精神性、聖性を持っていると思います。多部ちゃん、橋本愛さんのお二人にはそれを感じるのです。

故に、このお二人は私にとってスペシャルな存在であるのです。



映画とドラマ


公開される映画は全部商業映画ではありますが、見せる側から観客を絞り込む映画があります。
いわゆる、メジャーじゃない映画ですよね。単館ものなどがその範疇に入ります。

女優さんによって、映画とドラマの比率が違いますが、映画の方に軸足を置いている女優さんの方が、メジャーになってからもメジャーじゃない映画に出ている傾向があるように思います。

例えば、ヒラタの先輩の宮﨑あおいさんはほとんどテレビドラマには出ません。特に民放のドラマに出ることは稀です。その宮﨑さんはメジャーになってからも「ペタルダンス」に出ています。エンターテインメント性の薄い、観客と距離を置いた作品です。(この映画が「良い映画」かどうかはさておくとして。)

同じく、蒼井優さんもテレビドラマには出ませんが、「たまたま」などに出ています。観客そっちのけの映画です。

映画はお金を取って観るものを絞り込むことが出来ます。そうする事によりその映画の持つ表現性を高く設定できます。わざわざお金を払った観客がその代価として知的満足度を得られる、というと聞こえが良いですが、観客の自尊心を満足させる効果もあります。

より映画に比重を置いた女優さんが、より観客を選ぶ映画にでている傾向にあるといえそうです。

さて、ある女優さんを好きになるということは、自分がその女優さんの才能を人より理解していると思い込む事でもあります。そしてそれを誇りに思う事、自らの価値観の優越を確信する事でもあります。

映画を創る側からは、より独自性の強い価値観を前述のような人々に供給することで成り立っているのです。

同じく女優さんを好きになるといっても、前述のようにではなく、容姿が好きである、あるいは擬似恋愛の対象として好きという場合もあるでしょう。そういう人達はその女優さんの演技そのものよりもメディアへの露出を求めます。

映画やドラマを創る側からは、より露出を広めて広告収入や興行収入を得ようとします。そして、後者の人達の要求を満足させます。

どちらが良いとはいいません。芸術愛好家のフリをした映画ファンと、ミーハーなファンとどちらを優先するべきか、答えはありません。

けれども、私自身は知的興奮の得られ、かつ容姿も好みである女優さんのファンでいたいと思ってます。そして、それがたまたま多部未華子さんだったという事です。従って、彼女が両方で成功して欲しいと思っています。テレビ女優にはなって欲しくない。多部ちゃんはメディアへの露出度では充分浸透したと思うので、もう少し知的興奮の得られる映画にも出て欲しい。冒頭の二人の女優さんに続いて欲しいと願っています。

舞台は、お金を払うとともに、出演者と「場」を共有するという事で更に観客を絞り込みます。映像より次元の違う興奮を与えてくれます。もしかしたら多部ちゃんは芸術点は舞台で稼いで露出はテレビと云う風に考えてらっしゃるのかも知れません。しかし、舞台には物理的になかなか行けません。そして、その場限りのものです。映像化したものを観ても隔靴搔痒の感があります。

多部ちゃんは、テレビドラマでもCMでもメジャー化は着々と進行していると思うので、ここらで映画の方にも比重を置いて欲しいと思っています。それが女優としての評価を高めることになる事を、宮﨑あおいさん、蒼井優さんが証明していると思います。このお二人は映画女優として高く評価されるとともにCMなどでも活躍なさっています。

多部ちゃんの、舞台、映画、TV、広告等全てのジャンルでの成功を祈って止みません。



映画とテレビドラマ

gonbe5515さんのブログへのコメント記事です。ご笑覧ください。

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>“ドラマ”のような映画が増えてきてませんか?ということなのだと思います。

これは最近よく言われることですね。「つばさ」が終わったときの新聞評で、「ドラマは良くなかったが、多部未華子はテレビドラマで使い潰すようなことはせず、映画で大きく育てて欲しい」といった評価がありました。これらに共通するのは、

映画 > ドラマ

という不等式です。これについて考えるとハードウェアから作品自体、制作過程など実に様々な要因があり、とても簡単に論ずることはでくきそうもありません。そこで、私なりにこの命題の糸口を考えてみました。

各論を論ずるとキリがないので、メタな議論に逃げます。

困ったときのwikipedia頼み、ちょっと検索してみます。以下は「サブカルチャー」で検索した結果の抜粋です。

かつて文化と考えられたものは、ハイカルチャー(学問、文学、美術、音楽、演劇など)であり、ブルジョア階級や知識人、教養ある人々に支持されるものであった。文化を享受するには一定の教養が必要であり、少数者のものであった。

-- ここまで

ふむふむ、「文化」ですね。映画は、第一次世界大戦ころからの大衆文化の進展より先に「文化」に滑り込みました。主に演劇文化の枝葉でしょう。テレビドラマはそれより後に「文化」に参入しようとしましたが、「ハイカルチャー」側の抵抗勢力にブロックされたのではないでしょうか。

主として商業主義のなかで制作され、観るのに事実上タダで個人的努力も要らないテレビドラマを芸術として認めることは「ハイカルチャー」の担い手の自尊心を傷つけるものではなかったのではないでしょうか。

私は、ある「文化」がジャンルとして確立する為には、「制作者」、「鑑賞者」、「評論」の三者のフィードバックのシステムが確立することが必要であると考えています。映画は「キネマ旬報」のような評論システムがあり、「映画評論家」が職業として確立しています。翻ってテレビドラマはどうでしょうか。「テレビドラマ評論家」という職業はないようです。スポンサー、制作者から独立したメディアとして「テレビドラマ雑誌」というのもありません。遅れて登場したテレビドラマは、メインカルチャーの一部門として定着できないまま、時代のなかで資本主義を背景とした大量消費型の大衆文化にカテゴライズされ、主にメディア論の中で取り上げられてきました。要するに、「映画」は芸術だけど「テレビドラマ」は芸術ではないと。

私は、「映画は芸術だ」というより、むしろ「芸術である映画もある」というべきだし、「テレビドラマは一概に芸術ではない」とも思いません。そもそも、現代文化のコンテキストで「芸術ってなんだ」、「芸術って本当にエラいの?」とも思っています。でも、やはり、多部ちゃんが「テレビタレント」として評価されるなら異議を唱えたくなります。舞台女優として高い評価を受けることは喜ばしく思います。これは、私の頭の中には依然として「芸術至上主義」が埋もれているのでしょうか。

現在の文化の状況下では、旧来の芸術論は成立し難いと思っています。もともと19世紀初頭くらいに、市民革命をバックにした「市民芸術」が誕生しました。喩え場ばベートーヴェンは音楽を宮廷文化のディレッタンティズムから市民劇場へ解放しました。芸術の担い手は貴族ではなく都市のブルジョアとなりました。都市ブルジョアは演劇を観るために劇場に足を運びました。その後、文化の担い手が都市ブルジョアから「大衆」に移ったあとも、大衆のなかで「上層」を自任する人は映画を観るために映画館に足を運びました。しかし、文化を伝播するメディアがテレビ、ビデオソフト、インターネットと急激に拡大し、「文化の担い手」が一体誰なのかよく判らなくなっています。VODやDVDやBS、CSなどで自宅に簡単にソフトを入手できます。そして、HDテレビの普及により、高画質で16:9の画面比率でリビングに居乍らにしてこれらを鑑賞することができるようになりました。

議論が拡散してしまいました。結論はありません。

ただ、メタな文化論としてテレビドラマを語ることはメディア論の詳細な検証が必要であると思います。テレビドラマの文化としての正当性はまだ確立していません。しかし、映画は旧来の芸術論のコンテキストから「芸術」として確立されています。そこで、例えば「女優」としての価値、特に歴史的価値を確立するためには「舞台女優」、「映画女優」としての成功が不可欠でしょう。「テレビドラマ女優」が歴史的価値を得るかどうか、まだまだリスクがあります。取り敢えず、多部ちゃんには、舞台、映画で活躍して女優としてのブランドを確立していただきたいとおもっています。テレビドラマを否定するものではありませんが、取り敢えず、メディア上の知名度の維持と経済的な成功を得るためにテレビというメディアに関わっていて欲しいと思っています。

このテーゼは、またいずれ取り上げたいと思っています。











プロフィール

marrella

Author:marrella
多部ちゃんと橋本愛さんと音楽と写真が大好きなオヤジです。
徒然にお二人の事や身の回りの事を書いています。
横着者なもので、スローペースでやっていきます。
よろしくお願いします。

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